武田 彩 さん

武田 彩 さん

profile_title
関西大学社会安全学部安全マネジメント学科。防災・支援団体「彩り(いろどり)」代表。被災地へのツアー運営や、災害食の認知を図る料理教室などの食のイベントを多数実施

■ 武田彩(たけだあや)さんのこれまでの主な活動

関西大学社会安全学部安全マネジメント学科で「防災」を学ぶ傍ら、学生向けにさまざまな防災/震災復興への啓もう活動を実施。2015年3月に、防災・支援団体「彩り(いろどり)」を立ち上げ、被災地へのツアー運営や、防災食の認知を図る料理教室などの食のイベントなどを多数行う。

■ インタビュー

【1】震災をはじめ、大きな事件が相次いだ年に生まれたことが防災への関心に繋がった

私は関西大学の社会安全学部安全マネジメント学科で4年間学んできました。「安全」と言う言葉が繰り返し出てくるように、自然災害・社会災害の最小化すなわち「防災」をテーマにした学問です。科目的には、法学、経済学、心理学、社会学、情報学など、耳慣れたものが多いのですが、これら多数の学問を広く網羅しつつ、そのすべてにおいて防災を絡めて勉強するのを特徴とした学部です。

学問としての防災、大学の学部としての防災という面では、みなさんには馴染みがないかもしれません。しかし東北の震災以降、日常生活における防災と言う点では関心が増えている人が多いのではないでしょうか。

「防災は大切な人を守る魔法」。少しメルヘンな表現かもしれませんが、私はこう認識しています。そしてそれをもう一歩「その手段にはいろいろな方法があって、それを広く知って貰いたい」。そのために学び、どう伝えていくかが、私が大切にしてきたテーマです。

武田彩1

こう言う活動をしていると、「なぜ防災に興味を持ったの?」と聞かれることが多くありますが、私にとっての原体験は1995年に発生した阪神・淡路大震災です。ちょうど当時、両親は関西に住んでおり、その時の話は何度となく聞かされました。

そしてこの年は、全日空857便ハイジャック事件だったり、地下鉄サリン事件だったり、社会を揺るがすほどの大きな事件が相次ぐ年でもありました。

私の生れは1995年ですから、当時どんなことが起きて、社会がどうだったのか、実際に自分自身で見聞きしたわけではありません。でもこれらの大きな事件が生まれ年に起きたことにより、テレビのニュースなどで当時を振り返られるたびに、自分の人生のそれまでを振り返る機会にもなりました。事故から5年10年と経つたびに、私も5歳10歳と年を重ねる。私の心の中ではすごく繋がっていたのです。

さらに大きかったのは、偶然にも私の祖父がサリン事件が起きた1本前の列車に乗っていたり、ハイジャック事件では何とその機そのものに乗っていたりしたことです。

当然、家でも毎年のようにその話題が出てきます。ニュースが流れるたびに、祖父や迎えに行った父親などの当時の映像が流れるのではないかと、テレビ画面を目で追ってみたり・・・。これらの事件は、我が家とは切っても切れないものとなりました。

【2】時間もお金も制約が多い高校生だからこそ、その中で頑張ることに意味があった

学校にも、震災の被害をまとめた写真集があったり、身近に触れる機会も多くありました。そして小学校2年生の時、先生が「将来もし災害があった時には、今度は助けに行く番だよ」と語られていて、その言葉は幼心にも、すごく強く印象に残りました。

とはいえ・・・ その言葉をあらためて思い出したのは、それから10年以上も経った後。東日本大震災の時でした。

「何かしなくては!」。すぐにそう思いはしたのですが、実際には何をどうすればいいか分からず、家でずっとニュースの映像を見ているばかりでした。あまりの非現実的な風景に、一体何が起きているのか理解することもできず、怖くて寝れなくなるほどでした。

楽しみにしていた合唱コンクールや卒業式もなくなり、卒業旅行とかもみんな無し。テレビも何もしていないし、親は買占めとかを嫌う性格だったので、日増しに家にご飯もおかずも無くなっていく。

でも一番強かったのは、みんなが被害に苦しんでいるのに、なぜ自分は自分の事ばかり考えているんだろうという自己嫌悪。それが鬱を加速し、精神的にもすっかりおかしくなってしまいました。

そんな状況を見かねた親は、環境を変えるべく関西の祖父母の家に私を行かせました。そして住まいを変えて驚いたのが、当たり前にテレビ番組が放映されていたこと。そしてみんなが普通に笑っていたこと。僅か10日ほどの滞在でしたが、そこで精神的に安定を取り戻した私は、今度はもっと動き出したくなりました。

武田彩2

そんなときに「セブンティーン」の雑誌で見かけたのが、石巻の高校生が震災をまとめた新聞を作っているという記事でした。「被災した同い年の子たちが頑張っているのに、私は何をしているんだろう」と、自分に腹が立ってきて、とにかく何かしようと。

生徒会の役員や、文化祭の実行委員などをしていたので、そこで何かできないかと考え、生徒みんなで募金する案とか、学園祭で被害状況を表した模型作りとか、いろいろ提案したのですが、ことごとく学校から却下。「震災はデリケートなテーマだから、あまり触れないように」ということでした。

こうして消化不良のまま過ごしていた時に、「高校生主体の復興支援団体があるよ」と、「Teen for 3.11」という団体を紹介されました。顔を出してみると、みんなすごく前向きに、何ができるか可能性を探していて、その議論している姿がとてもカッコよかったんです。すっかり惹かれました。「私にも何かできるかも」と素直に思えるようになり、フリーペーパー作成や旅行イベント企画などに関わるようになりました。

例えば、東北の食材で郷土料理を作って振る舞うイベントをしたり、バス1台を借りて40名ほどの高校生で訪れ、現地の高校生と交流したり。またそういう活動をまとめた冊子も作りました。

高校生だから当然お金はありません。受験勉強や学校の授業とかルールとか、たくさんの制約があって、できることは限られている。でも、限られているからこそ、その中で頑張ろうと考える。みんなのその姿を見ていて、私自身も大きく成長させていただいた気がします。そして、大学になって手がけてきた様々な活動も、この時であった仲間たちがいたからこそできたことが殆どで、非常に良い出会いがたくさんあった機会でもありました。

【3】津波の本を20冊ほど買って、毎日泣きながら読み明かす

高校生の時は、いまできる目先のことで精いっぱい。「Teen for 3.11」のメンバーの一人としての私、で完結していた気がします。でもこの経験を通じて、私が進むべき道が少しずつ見えてきました。東北のこと、震災支援のことをもっと知りたい、学びたいと。

当初は、社会学部とか経済学部などへの進学を考えていたのですが、防災をもっと学問的に学びたいと思うようになり、これらをトータルで学べる大学は関西大学だけということで、進路をここに決めました。

初めの頃は、大学生らしくと言うか、みんなで遊んだりオールしたり、そういう毎日を楽しんでいたのですが、途中ふと「私はこういうことをするためにこの大学に来たわけではない」と。

学校でも、受けられる授業はみんな顔を出し、震災に関連する本も片っ端から読みました。津波の本も、新宿の紀伊国屋に行って20冊ほど買い漁って、一気に。

正直もう読んでいるのがつらくて、苦しくて。でも「これが私が学びたかったことだ」と、毎日泣きながら読み明かしていました(苦笑)。周りにも応援してくれる友達がいて、ただ無性に「もっと頑張らないと」そんなことを考えていました。

武田彩4

私はもともと負けず嫌いなタイプだと思います。「自分に負けたくない」と言う思いがとても強い。

その背景の一つに、一人っ子でもあったため、新しいことや変わったことをすることに、親があまりいい顔をしなかったことがあります。だから自分の意志で決めたことを「やっぱりやめたい」とかは絶対言えない。意地でも納得できるまでやり通す。そんな習慣がついた気がします。

【4】気仙沼で出会った酒屋さんとの絆の広がりがとても感動的だった

私にとってとても貴重な、そして防災のこと東北のことについて頑張りたいと考え続ける大きなエネルギーとなったのが、高校卒業間近の2014年冬の一つの出会いでした。

場所は気仙沼。漁港の近くでお店を構える酒屋さんでした。近くを通った時に、酒屋さんの方から「どこから来たの?」って声をかけてきてくれて。「あまり勝手にこちらから話しかけてはダメ」みたいなことを聞いていたので、それがとても嬉しくて、いろいろ話したんです。

その時に聞いた「(支援のためとかに関わらず)この街へ来てくれるだけで嬉しいんだよ」「ありがとう」と言ってもらえた言葉がすごく印象的で・・・

武田彩3

でも家に帰ってきたら、名前も聞いていない。お店の名前も憶えてない。何とか「気仙沼+酒屋」のキーワードで、それらしき店を調べてお礼状を送ったら、ちゃんと届いたようで返事が来たんです。そしてそこには「地元の気仙沼のために頑張る」というフレーズがあった。

「自分自身が大変なはずなのに、みんなのために?」「すごすぎる」と感動し、また絶対行かないといけないって決心したのです。そして大学生になってアルバイトをして交通費を貯めてもう一度現地に行きました。

そうしたら、その酒屋さん泣きながら出迎えてくれたんです。「よく来てくれた」って。「当時3人くらいの学生に話しかけたけど、他はみんなそれっきりだった。でも本当にまた来てくれる子がいるとは」そう感動されて。「お酒なんて買わなくていいからまた来るときがあれば寄ってね」と。

それからずっと、年に3~4回のペースで顔を出しています。流されたお店もプレハブの綺麗な店に変わって。20歳の誕生日の時には一升瓶のお酒をプレゼントでいただきました(笑)

その後、高校時代に考案した企画が、後輩のもとで気仙沼の「リアスフードグランプリ」として開花したり。行った先それぞれに、新たな出会いがあり、また次に繋がっていく。そういう人と人の縁がとても感動的で、私の活動における大きな原点になってきていることを強く感じます。

【5】身近で続けやすい形で防災や被災地の情報を伝えていく

私が代表を務める、防災支援団体「彩り(いろどり)」を立ち上げたのは、2015年3月。大学1年の終わりころになります。

以前から防災教育に興味があり、個人で小学校に行って授業などをしていたのですが、自治体の方から「個人だと声をかけにくいので団体にしてほしい」と依頼されて、作ったもの。ですから基本的には私一人の活動としてスタートしています。

武田彩5

私の防災教育には一つの軸を設けてきました。それが「食」です。食べ物を通じて現地のことに詳しくなる。現地の商品を買う(伝える)ことで少しでも貢献する。そして一緒のご飯を食べることで、みんな仲良くなれる。そんなたくさんのメリットがあるとか考えているからです。

そして「防災」である以上、ただ食べるだけでもダメで、その中で「災害食」と言う存在を知り、親しんでもらうという点に重きをおいています。

例えば2015年の夏に初めて開催した料理教室では、気仙沼や石巻から友達伝いで材料を取り寄せ、ずんだ餅と芋煮、サンマチャーハンを作りました。

このサンマチャーハンというのは、サンマ缶の身を取り出しご飯を袋の中で混ぜて、最後に軽く火を通すだけというシンプルなもの。このように、火や水の使用を最小限にして料理をするのが非常食の基本です。でも実際に美味しいですし、1人暮らしの食事としても使えるので、参加してくれた20人くらいの学生からも好評でした。

実は活動としては、団体設立のもう少し前から被災地を訪れるツアーをしていたんです。計3回ほど開催し、一定の意義はあったとは思うのですが、運営する自分自身が疲弊し、企画をまわすことだけで精一杯になっている現状がありました。

それよりはもっと自分自身が楽しみ、継続しやすいカタチにしたほうがいいと思っていて、この料理教室という方法を考えたのです。その期待通り、自分自身も自然体で動け、楽しく和やかな学びの場になりました。

例えば、災害食だけでなく、お酒とかおつまみとかお土産とか、そういうものを東北のものでそろえることで、自然とみんなの意識の中に東北のことが浸透していく。実際に、ここに参加してくれた学生のほとんどが、次の開催の時に「被災地に行ってきたよ」と報告をくれたり、もしくは「今度行く時があれば私も行きたい」などと言ってくれたりするんです。それはすごく嬉しかったですし、やっていることの意義を感じることができました。

【6】やり続けたらいつかどこかで喜んでくれる人がいるかもしれない。そう信じきること

2016年4月14日、皆さんもよくご存じの通り、熊本で大きな地震が起きました。それから2分もしないうちに、震災復興に関わってきたグループのLineが鳴りました。「これはやばいぞ」と。そしてこの仲間や、GIカレッジで知り合ったメンバーに急いで連絡を取り合いました。「現地で今何に困っているか、何がネックになりそうか何でもいいから教えて」と。

一方で「あったら便利な情報は何だろう」と、被災地から離れていてもできそうなこととして「まずは現地のマップを作ろう」とスタートしました。例えば、病院、中でも人工透析が受けられる場所、ホームセンターなど生活物品がある場所、お風呂が入れるところ、大雨時に土砂災害が起こりうる地域など、計13種類。一晩で作り上げました。

武田彩9

当時意識していたのは、被災者の方々の見えない顔を必死にイメージすることです。何が役に立つのかは、やってみないとわからない。ひょっとしたら意味がないかもしれない。でも、やり続けたらいつかどこかで喜んでくれる人がいるかもしれない。まずはそう信じ、思い込むこと。

そして、この時非常に多くの人が迅速に協力しながら動いてくれているのを見て、防災というのは人脈というか、人と人のつながりが非常に大事なんだなということも強く学びました。

その後、3週間ほどして現地に訪れることができる環境になって、避難所を細かく回りました。できることは限られているのですが、それでも今まで学んだことの中から、衛生管理についての改善案や、災害食を伝えたり、避難所の環境向上のための行政に対する提案とかを行ったり。

ただ一方で、現場のリアルに触れれば触れるほど、無力感がより強くなってきたのも事実です。あまりにも知識が足りないなと。法的なものや行政的な動き、特に「被災者の今後の生活をより良いものにしていくには、何を考えどうすべきなのか」そういう部分が全く分からないのです。

【7】大きな病気を経験することで「防災」への認識がより広くなった

そこで大学3年の後半頃からは、表に出て活動することよりも、大学の中でしっかり学びなおすことに重点を置くことにしました。最後の2年間は本当にゼミしかしてないというくらい、1日平均10時間以上ゼミ室にこもる日々。

一方インターン先が、防災情報に関しては第一人者であるIT企業で、社会課題の解決にも力を入れており、ここで働いたことも大きな学びとなりました。特に、情報の発信力とか影響力の強さとか、そのあたりの大事さも痛感しました。

このように、私の大学生活は学校もプライベートも課外活動もインターンも、すべてが一つの軸で繋がってきたと言えます。それは私の中でも一つの自負と言っていいかもしえません。

武田彩8

ただ・・・2017年になって、大きく体調を悪くしました。その後の生活に、けっこう影響があるほどの。

今までずっと突っ走ってきた人生の中で、こうやって立ち止まらざるを得ない状況になるのは初めて。精神的にもバランスを崩し、やるせない思いをすることがたびたび。

でも「こうやって小休止することも、人生の中で何かしら意味があるはずだ」と言い聞かせて、ネガティブにならないように日々言い聞かせていると、あらためて見えるものがあるんです。それは人への感謝とか温かみとか、自分は周りにいる人たちにとても恵まれていたんだなということも。

それまで私は、「助けたい」「役に立ちたい」という側のみで防災をとらえ考えてきました。しかしこの闘病期間は、「助けてもらう」「感謝する」側の立場。被災者の気持ちを理解するとまでは言えないかもしれませんが、「困っている人の気持ち」に少しでも寄り添えるようになった気がするのです。そして友達と話したりとか、遊びに行ったりとか、何気なく当たり前にできている日々の営みが、どれだけありがたいことかも、心から実感しています。

武田彩7

本当にありがたいことに、卒業を前にして病気はかなり落ち着きました。この1年間は、つらいことは確かに多かったのですが、それ以上に将来の財産になりうる経験でもあったのだと思っています。

そして4年間の学びの中で、あらためて実感したのが、「個別のニーズに寄り添った支援の必要性」と「防災、復旧、復興における若者の活躍」というキーワード。これまでやってきたこと、思っていたことは間違いじゃなかったんだなって。

春からは、かねてから行きたかった(インターンをしていた)企業で働きます。防災の仕事は一生をかけて学び続けることができる価値ある領域です。いつの日か「防災のプロフェッショナル」として、しっかり自己を確立し発信できるように、新たなステージに臨んでいきたいと考えています。